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心に残った映画や読書の記録。日々の備忘録のようなモノ。【ブログ管理人:小夏】


by 小夏
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怒りは他人にとって有害であるが、憤怒にかられている当人にとってはもっと有害である。


18日付、日本経済新聞に掲載された直木賞作家、坂東眞砂子氏のコラム「子猫殺し」に抗議が殺到しているそうです。そりゃそうだろう。内容からして当然のことだと思う。
「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。」、彼女が語るこの理屈はわからなくもない。(それ以前に、「人は他の生き物に対して、ペット化する権利もない」のだが。)
しかし、そのことと「子猫を殺めること」とは全く別の問題ではないか。
人間に「避妊手術を行う権利」がないなら、「この世に生を得た命を殺す権利」だってないはずだろう。少なくとも、両者を同列上に並べて正当化できることではないと私は思う。
「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。そこに大差はない。」という彼女の論理・思考は、とてもじゃないけど私には理解できそうにない。何が正しくて何が間違っている以前の問題として、私自身のもっと深い根本的な部分で彼女の主張を受け入れることが出来ないのだ。

抵抗する術を持たず、何もわからないまま葬り去られる子猫たち。
全うできなかったあまりに短すぎる「命」を思うと、やりきれない憤りでいっぱいになります。
ただそれだけです。

怒りは他人にとって有害であるが、憤怒にかられている当人にとってはもっと有害である。_c0046869_17574661.jpg以下、全文を載せます。ご気分を害される方もいらっしゃるかもしれませんので、ご覧になりたくない方はスルーして頂いて構いません。


■関連記事:坂東眞砂子さん「子猫殺し」コラム、掲載紙に抗議殺到




「子猫殺し」  坂東眞砂子

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。

タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。

猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろんそれに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
(8月18日付、日本経済新聞コラム「プロムナード」より転載)

by marienkind | 2006-08-25 00:23 | 日々思ふこと